出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/UFO%E7%A0%94%E7%A9%B6 プロジェクト・グラッジ 1948年、プロジェクト・サインは「プロジェクト・グラッジ(英語版)」と改名された。プロジェクトの焦点はUFO現象の調査というよりも、UFOを目撃した人々の心理的調査に移っていった。調査は機密扱いであり、半年後の1949年には既に最終報告書が出されていた。その報告書ではUFO目撃例の23%が「識別不能」として残ったが、そうした例についてグラッジは「心理学的説明」で対応した。グラッジは最終的にUFOは自然現象の誤認であるか、目撃者の集団ヒステリであると結論付けたが、そうした分析には偏向があった。(例として、このグラッジの報告書の中には、複数の空軍スタッフが目撃した「T-6パイロットの目撃例」が含まれていた。この事例では、空軍気象局や天文学者が調査した結果「断じて気球でも航空機でも幻覚でもない」といった調査結果が出ていたが、グラッジはこれを気象観測用気球だったと報告書で説明し、その理由を明らかにしなかった。)しかし、こうした最終報告書とは関わりなく、1949年当時のUFOの目撃例は増え続けたため、空軍は「UFOの調査機関がある」という事実自体が人々に不安を与えると考え、1949年にプロジェクト・グラッジを解散させた。[5] プロジェクト・ブルーブック 1951年には円盤型UFOが目撃され、それをレーダーが捕捉する事件(フォートマンモスの目撃例)が起こり、続く1952年になるとUFOの目撃例は爆発的に増加した。UFOへの一般的な関心が高まる中でエドワード・ルッペルト大尉はプロジェクト・グラッジを再編し、1952年にこれを「プロジェクト・ブルーブック(英語版)」と改名した。ブルーブックは報道機関に協力し、大衆にUFO情報をできるだけ説明する方針に変更した。ライフ誌などがこれを受け、UFOを扱った記事を掲載すると(宇宙人の乗り物説)空軍には問い合わせが殺到し、プロジェクトは日常業務に支障をきたすまでになった。更にそうした中でワシントンUFO乱舞事件が起こると1952年のUFO目撃のウェーブはピークに達した。こうした膨大な数の目撃報告によって、プロジェクトの科学コンサルタントに任命されたアラン・ハイネック(英語版)を始めとして、UFO地球外仮説を真剣に検討しようという人々すらプロジェクト内に増え始めた。一方で空軍の上級将校や、情報機関のCIAなどはUFOが「国家安全保障にとって脅威となり社会的に恐怖を与えるため、その目撃報告を減らすことが重大」だと考えた。[5] 後の1978年には情報自由公開法により、CIAに保管されていた1000ページほどのUFO関連資料が公開された。CIAは1947年以来、この問題に関心を持っていた。[6]